見沼代用水


見沼を干拓して作る広い田んぼで使う水をどこから引いてくるかが、弥惣兵衛の一番の悩みでした。
近くの荒川から引くには、民家がたくさんある大宮を通って水路を掘らなければならず、多くのお金と日数がかかり、春の田植えに間に合いません。

そこで約60キロも離れていますが、現在の行田市下中条(ぎょうだし・しもちゅうじょう)というところを「元入り(もといり)」として利根川から水を引くことに決めました。
見沼の水の代わりの用水路なので「見沼代用水」と名づけられました。
途中に、星川という川があり合流させることで水が不足する心配はありません。

その用水路と元荒川とが交差することころでは、「伏越(ふせごし)」といって木造の水路を作り、川の下をくぐらせ、綾瀬川と交差するところでは、「掛渡井(かけとい)」という水路の橋をかけて川の上を通らせ、上尾・瓦葺(かわらぶき)<掛渡井があるところ>で、用水路を東縁(ひがしべり)と西縁(にしべり)に分け、見沼田んぼを囲むようにして、1728年、わずか半年足らずで完成させました。

翌年弥惣兵衛は見沼より西側の高沼(こうぬま)も干拓し、高沼用水も造りました。

セメントも鉄骨もない時代です。
いろいろな構造物は石と木材を使って造りましたが、約60kmの工事で計画との狂いはわずか6センチだったと言われ、弥惣兵衛たちの優れた土木技術には驚かされます。
「伏越」「掛渡井」をはじめ、木材の構造物は江戸から大勢の腕利きの大工さんを呼んで造らせました。
三年後の見沼通船堀の完成までを含めて、のべ九十万人もの人が力を合わせて働きました。
弥惣兵衛はすでに65歳を超えていて当時としては大変なお年寄りでした。

先人の知恵と努力で造られた用水路には、今も豊かな水が流れ、さまざまに活用されています。



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